古田武彦。1926年、福島県に生まれる。朝日新聞社から刊行された『「邪馬台国」はなかった』で古田を知った私だったが、初期三部作の頃の高邁な精神性を有しているがごときその姿は単なる幻影であったことを後に知ることになる。                                                  
  
  権威主義的で傲慢で、権力志向の塊となった老残の古田武彦の姿に直に触れた私は、深い悲しみを覚えたものだった。

 しかし、今ではそれは強い怒りへと変わってしまった。かつて右翼を名のる者たちから「殺す」と言われた古田だったようだが、もう古田の精神はとっくに死んでいる。
     
 古田武彦を形容するに相応しい言葉は「醜物」の二字であろう。林健太郎が古田をオウム真理教の麻原彰晃にたとえたことがあった。権力の側にいる林の目に映った、己に取って変わろうとする古田の凄まじい権力欲に対する林の敵意が麻原云々の表現によく表れている。
                   
 先に老残と書いたが、古田のこうした人間性は決して加齢によるものではなく、はじめからだったのだと私は思う。よく言われるとおり、人は加齢でそれまで隠していたものが出るからだ。              

 ただ、古田武彦が提唱した多元的古代という歴史像は、正鵠を得ていると確信する。全ては天皇から始まったとする非科学的な歴史像は学問に値しないだけではなく、日本という国の「まとまり」を追求する上でも障害だ。私はナショナリストとしても天皇家一元史観を排する。                   

                                 2012/11/09記 菅野拓

*追記1 2015年10月14日に古田武彦は死亡した。                     
*追記2 「古田武彦と柳田国男」と題する小文を『福島の民俗』44号(2016/3)に寄稿した。
  ただし、校正上の行き違いから標題は「古田武彦と柳田國男」と旧字で表記されている。

 

 
 【消された最高裁判所判事】

 私が古田武彦に絶縁状を叩きつけたのは、2012年8月のことだった。

 その時は、葉書に「古田よ、おまえのその腐った精神には親鸞を語る資格などない」と激烈な文事を書き連ねたが、それに至る前段には古田と何回かのやり取りがあった。

 古田に対する私の悲しみを文字にした初期のものが、以下に掲載した書簡である。

 この書簡に対して、古田からは原稿用紙50枚は超えると思われる手書きの書簡と、そして法律関係の雑誌社が出した倉田卓次追悼号のコピーが送られてきた。

 私は数行だけ読んで、これを破り捨てた。古田の書簡の出だしは可部恒雄のことで、無二の親友であり、家族に言えないような相談も可部からされたりしていた、と。そして相変わらず、可部は原発問題の裁判には関わったことがなく、他の最高裁判事とは一味同心ではない云々と。

 破り捨てずに残していたら、古田武彦の人間性の研究としての貴重な資料であったのだろうが、私にはとてもじゃないけれど読むのもおろか、手許に残しておくなど耐えられない代物だったのだ。

 古田武彦は2013年に『真実に悔いなし』という自伝をミネルヴァ書房から出しているが、そこには旧制広島高校の同期生で無二の親友のはずであった可部恒雄の名前は何処にも出てこない。

 そして、あれほど佐賀地裁の所長であったとか、立証責任論の権威者であるとか、その法曹ボスぶりを古田が以前の著書で称揚していた倉田卓次について、肩書き無しのただの「倉田卓次さん」として登場させている。

 あわてて、死期を前にして自らの権威主義者ぶりを消し去ろうとしたものだろう。
 そのため、本来ならば書かれるべき旧制高校の学生生活が殆ど抜け落ちていて、実につまらない自伝になっている。こんな風に自伝をつまらなくしたのは私なのだと思うと可笑しくなる。

 それと、この『真実に悔いなし』には、古田武彦にとって絶対に落としてはならない人物の名が抜けている。
 篠原俊次、洛陽工業高校時代の教え子である。

 古田は、初期三部作を上梓して間もなくの頃、篠原俊次のことを「彼には考古学の面では教えられる立場だ。彼がいなかったら、私の古代史研究も進まなかった」としみじみ私に語っていた。

 その篠原と古田は、あることを切っ掛けに疎遠になっていくのだが、初期三部作の成立に影響を与えた人物を自伝から消し去るとは、何たる狭量か。

 先に親鸞云々と書いたが、考えてみれば私の抱く親鸞像は古田武彦経由でしかなく、実は親鸞なる人物もきちんと史料に当たれば大した人間ではなかったのかもしれない。

 現在、古田史学を継承したとする古田史学の会と、古田武彦の名を辱めてはいけないと主張するその反対派が揉めているようだ。どちらにしても古田武彦が高邁な精神を欠いたことへの批判はなく、所詮同類であるとしか私には映らない。
 
 こんな私的な書簡を公開するのは恥ずかしくもあるが、私自身の区切りとして掲載した。

                              2018年6月17日記
                                     菅野 拓                                           

 
 [以下が古田武彦への私の書簡である]

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                         2011年(平成23年)11月29日

 古田武彦 様
                                    菅野 拓


 謹啓
 非礼を承知で、迷いつつも、私の胸中の一端をあえて書かせていただきます。

 実は、この手紙は10月6日に書きかけて、そのまま未完にしていたものですが、11月20日付けのお手紙とともに頂戴した松本郁子氏の文章(今年の八王子セミナーでの古田さんの講演要旨)を拝読して、やはり書くべきだと決断いたしました。

 (1)「田中さんはラジオ体操をしない」
 10月5日、十三の第七芸術劇場で観てきました。ただただ己が意のままに他者を支配しようとする権力者の醜悪さと、それに迎合する人々の醜悪さが、田中哲朗という才能を通じてよく描かれています。

 田中哲朗がいなければこの作品は存在しなかったのは当然として(田中哲朗は自己の才能にあぐらをかいているとも言えますが)、ここで描かれているのは田中哲朗の生き様である以上に、人間の本質への問いかけです。残念ながら、この映像のような問いかけは今の古田史学に感じられません。

 (2) 可部恒雄や倉田卓次のしたこと
 巨大企業の経営者が、社員を社畜化するためにラジオ体操を強制する。そして、従わない者は解雇する。この権力者の暴力に対して、可部や倉田は何をしたか。

 直接、田中哲朗の事件には関わっていないなどという言い訳は通じません。彼らは裁判官という権力の座にいて、田中哲朗の突きつけたラジオ体操が象徴する事象に対して、一体何をしたのか。問われているのはそのことです。原発の問題も亦た然り。

 仮にひとつやふたつ「多少いい判決」を書いたり、或いはもっともらしい法理論を展開したとしても、そんなものは一匹の蜘蛛を踏みつぶさなかったカンダタの「善行」にも如かない。

 退官して大企業の顧問に天下って勲章をもらってよころんだり、駄文を弄んで「オレは上等な人間だ」と嘯いてふんぞり返っている品性下劣な人間は、まさに荘子の「天の小人」の語がふさわしい。

 (3) 親鸞の言葉
 私は、かつて古田さんの文章で「とめるもののうたへは、いしをみづにいるゝがごとくなり。ともしきものゝあらそひは、みづをいしにいるゝににたりけり」という親鸞の言葉を知りました。

 古田さんなら、何とおっしゃいますか。今は民主主義の時代で親鸞の頃とは違う、でしょうか。もしそうならば、まるで裁判所には正義があるという権力の側の宣伝文句ですね。可部や倉田は、悪代官とは違うとでも言われるのでしょうか。

 (4) 権威主義
 そもそも、私が可部や倉田のことを古田さんに書く羽目になったのは、古田さんが高級司法官僚としての彼らをさかんに著作の中で持ち上げたからです。

 そうでなければ、私は古田さんが誰とどんな交友があろうと、あれこれ書き連ねることはありませんでした。それ以前に、そんな交友関係を知ることすらなかったはずです。

 倉田命題。仮にそれが価値あるものとしても、一読者からの指摘と紹介すれば足りたことです。それを地裁の所長もした司法界の俊秀で、などと何故記さなければならなかったのか。

 そして、最高裁判所判事としての可部を「自分の学問の理解者」として何故特記しなければならなかったのか。しかも、畢生の書と銘打った『俾弥呼』の結語がそれであるとは。

 私は、近畿大学の通信制で法学部を出ましたが、そのとき刑法230条の名誉を毀損する罪の解釈を知って呆れかえりました。社会的地位のある人間には名誉があるが、たとえば無学歴で低所得の労働者には名誉感情はあっても名誉はないのですね。

 古田さんが可部や倉田を持ち上げたのは、「オレの学問は、名誉ある人士が支持している立派なものなんだ」と言いたかったとしか取れません。それは、東大の歴史学の大先生が言っているから正しいという、ありきたりの権威主義よりもさらに醜い。
  
 (5) 有閑階級の道楽
 古田さんが可部や倉田を持ち上げることで、得たものもあるかもしれません。それは、古田史学は権力にとって危険ではないという認証です。

 本願寺の出版妨害をはじめ、古田さんの論文を既存の学会(学界ではなくて)が排除してきたのは、孟子の言う「富貴も淫する能わず」の精神を恐れたからです。決して単なる史料批判の技術を嫌ったわけではない。

 今の古田さんの書くものには、率直に申し上げて「富貴も淫する能わず」が感じられません。生活苦とは無縁の場に身を置いて好きなことをしているだけの、有閑階級の道楽としての考証学になってしまっている。

 古賀達也や正木裕のごとき徒が、権力志向をむき出しにして古田武彦の名を担いでいる様を、私はかねがね苦々しくそして残念に思っていました。

 でも今は、彼らを育てたのも古田さんであり、彼らが古田さんの没後に好き放題に古田史学を販売して利権を貪ろうとし、さらなる醜態をさらしたとしても、それは古田さんご自身の選択なのだと思うようになりました。そして、有閑階級の道楽ならば、そんなものは滅んでしまってもよいと。

 (6) 晋恵の肉粥
 古田さんは、一方で非正規労働者の劣悪な労働条件のことを憤慨する文章を書く。同じ手で、高級司法官僚としての可部や倉田を持ち上げている。古田さんが善意であるとすれば、それは晋恵の肉粥の話と何ら異なるところがない。悲しいことです。

 一昨年くらいの講演で、古田さんは、団塊の世代の古田史学の会への入会者が多いことをよろこんで「学生運動に敗れてやむなく会社人間になっていた人達が、定年を迎えて頸木が外れ、再び自己主張を始めた。まさに団塊の世代の反乱である」と言われました。

 別の視点からのこの発言への所感を以前の手紙で書きましたが、古田さんは団塊の世代のどれくらいが学生運動のできる環境にあったかご存知なのですか。

 NHKラジオですら、「この世代の大学進学率は二割に満たない。だから団塊の世代イコール学生運動という図式は、恵まれた者、声の大きな人達だけに焦点を当てた偏見だ」と論説委員が指摘していました。

 インターネットの掲示板で、高卒、中卒を怠け者と罵倒する書き込みが見受けられますが(自由意思で「行かない」という選択も、もちろん立派な選択です)、大学に行きたくても行けなかった人間が相当数います。古田さんの目は、そうした人々のことも本当の意味で見ているのでしょうか。

 (7) 牧健二のこと
 私が三十五年前に古田さんと始めてお目に掛かった頃、牧健二も古田さんの論争相手の一人でした。

 京大の法学部で瀧川事件のときに教授の職にあった牧は、既に齢八十を越していて、古田さんが「もうお爺ちゃんだから何を言っても話が噛み合わないんだ」と苦笑されていたのをハッキリと覚えています。そして今は古田さんが、その牧の年齢に達してしまった。

 人間は加齢とともに衰えていく。最近の古田さんが『隋書』の「無故火起」を火気厳禁の掲示であると解するなど、前後の文脈から考えても支離滅裂な読解です。意訳ではなくて、逐語的に口語訳をしてみれば一目瞭然です。それが古田さんには全く見えないとなると事は重大です。

 ミネルヴァ書房は古田さんの理解者ぶっていても、目当ては売り上げしかない。無節操に一元史観派の著作を並べているのが何よりの証左です。その意味で、古田武彦コレクションは油田を掘り当てたと言うべきでしょう。

 売れると踏めば、古田さんの書くものをミネルヴァ書房はどんどん活字にしていく。そんな中で、「無故火起」を火気厳禁の掲示などとする古田さんの「新発見」が単行本化されてしまうことを、私は物凄く懼れています。これはややもすると、これまでの古田さんの研究全体を烏有に帰せしむるのではないかと。

 非礼の極みを承知で申し上げますが、もはや古田さんは筆を置くべきときではないか。有閑階級の道楽など滅んでしまえと言いつつ、こんなことを書いて可笑しいですね。

 これまで古田武彦に諂った人間は固より、刃を向けた人間も大方が、否、全てが古田を叩くことで己が利益を図った者ばかりだったはずです。私は、ただただ残念さと悲しみだけで、これを書き終わりました。

                                     敬具

                                 (署名) 菅野 拓


            大学評価・学位授与機構で学士(文学、専攻の区分:歴史学)を取得した記録 http://gakui.nobody.jp/